『ごん、おまえだったのか・・・』児童文学「ごんぎつね」の物語は今も多くの日本人に親しまれています。
この物語を書いたのは児童文学作家の新美南吉ですが、彼がどんな人生を送り、どんな風景を見ながら作品を生み出したのかは、意外と知られていないかもしれません。
そんな新美南吉の故郷を改めて歩いてみたいと思い、今回訪れたのが、愛知県半田市にある新美南吉記念館です。
南吉の生涯や作品が生まれた背景をたどりながら、故郷・岩滑(やなべ)の豊かな自然にも触れ、記念館の展示や隣接する童話の森を巡ってみました。

新美南吉はどんな人?
新美南吉は、『ごんぎつね』や『手袋を買いに』などの作品で知られる児童文学作家です。
南吉の作品には、動物や子どもたちを主人公にした物語が多く、素朴な情景の中に、孤独や思いやり、人とのつながりなどが描かれています。

子ども向けの童話ですが、大人になってから読み返すことで、登場人物の気持ちや物語の結末について、また違った見方ができる作品でもあります。
そんな作品を生み出した新美南吉とは、いったいどのような人物だったのでしょうか。
ここからは南吉の生涯をたどりながら、作家として歩んだ人生を見ていきます。
新美南吉の生涯 | 幼少期〜晩年を紹介
1.幼少期〜代用教師時代
大正2年(1913年)7月30日に新美南吉は生まれました。愛知県半田市岩滑(やなべ)の渡辺家に、次男として生を受け、本名は渡辺正八(わたなべ・しょうはち)と言います。
「新美南吉なのに、なぜ渡辺?」と思うかもしれません。実は「新美」という姓は、生まれたときからのものではありませんでした。正八の人生には、姓と名前の両方が変わる転機があったのです。
最初の転機は小学2年生の頃。母方の実家で跡を継ぐ者がいなくなったことをきっかけに、正八は新美家の養子となり、「渡辺」から「新美」へと姓が変わりました。
大正9年(1920年)7月、当時の義務教育は小学校まででしたが、半田第二尋常小学校を卒業した正八は、教師の推薦を受けて半田中学校へ進学します。
ここから文学への関心を深めていき、作品を書いて雑誌へ投稿するなど、少しずつ作家への道を歩み始めていました。
中学校を卒業後は師範学校を受験します。しかし、生まれつき病弱だったこともあり、不合格となってしまいます。

生まれつきの体の弱さは今後の南吉の人生にずっとついて回ることになっていくのでした…
その後、正八は母校である半田第二尋常小学校で代用教師として教壇に立つことになります。

代用教師とは、戦前の小学校で教員免許を持たずに教壇に立っていた教員のことです。当時は教員不足を補うため、正規の資格を持たない人が代用教師として働くことがありました。

南吉は代用教師を務める一方で、文学への思いも持ち続けていました。自ら執筆した作品を雑誌へ投稿し、将来は作家になることを夢見ていた正八。
そして、この頃から現在まで知られている【新美南吉】というペンネームを名乗るようになります。
南吉という名前の由来について、記念館では初恋の女性との関係があるのではないかと紹介されています。

もしこの説が正しければ、初恋の女性への思いをペンネームに忍ばせたことになります。……なんとも文学者らしいエピソードですよね。
教師として子どもたちと接しながら、作家への道を模索していた――。
代用教師時代は、後の新美南吉を形作る大切な時期だったのかもしれません。
その後、別の学校でも代用教師を務めた正八は、さらに学びを深めるため東京へ向かいます。
2. 東京の生活と帰郷|安城女学校の教員時代
昭和7年4月、南吉は東京外国語学校の英文科に進学します。4年間の学生生活では、友人たちと文学や芸術に触れる機会も多くありました。
大学時代、特に親しくしていたのが、先輩で詩人でもあった巽聖歌(たつみ・せいか)です。巽聖歌は、南吉の文学活動にも大きな影響を与えた人物でした。

この頃から、南吉の創作活動にも変化が訪れます。
南吉が作品を発表していた童話雑誌「赤い鳥」が休刊となり、さらに「チチノキ」も休刊。作品を発表する場が次々となくなってしまいました。
そんな中、巽聖歌を通じて、児童向け雑誌の仕事を紹介される機会をもらうも、当時はまだ無名だった南吉です。残念ながら、この仕事を引き受けることはできませんでした。
文学への道を歩みながらも、思うように作品を発表できない日々が続きます。

昭和9年2月、南吉は初めて喀血(かっけつ)してしまいます。喀血とは、消化器官からの出血による、吐血のことです。
その後、静養を経て復学しましたが、体調の問題は南吉の人生に大きな影響を及ぼしていきました。
大学卒業後には東京土産品協会に就職しますが、数か月後に再び喀血。これを機に東京を離れ、故郷の岩滑へ戻ることになります。
夢を抱いて上京した南吉でしたが、病気によって再び故郷へ戻ることになったのです。
昭和12年4月、帰郷した南吉は河和第一尋常小学校で代用教師を務めます。この頃は坂道を上ることも辛いほど体調が悪かったとされています。それでも、教え子たちや同僚に支えられながら、教師としての日々を送っていました。
昭和12年6月、飼料会社の杉次商会へ就職しました。大きな農場で配属された仕事はヒヨコを世話する仕事です。
その後、経理課へ異動となり、翻訳等の職務もあったそうですが、給与も安く生活は苦しいものだったそうです。
昭和13年4月、南吉は三河の安城高等女学校へ教員として赴任します。これは、中学時代の恩師による配慮があったとされています。

安城高等女学校では教員として働きながら、南吉は再び童話の執筆に力を入れるようになります。東京時代の友人を通じて、『哈爾濱日日新聞』に作品を寄稿する機会にも恵まれました。
さらに雑誌などにも作品を発表する機会が増え、南吉は自分の作品を世に送り出せることを喜んでいたとされています。
教員として安定した生活を送りながら、再び童話作家としての活動にも恵まれていった南吉。ここから、短い生涯の中でも創作活動が大きく広がっていく時期へと入っていきます。

3. 人生初の出版と、29歳の短い生涯
昭和16年(1941年)10月、南吉は学習社から依頼を受け、伝記物語『良寛物語 手毬と鉢の子』を出版しました。
南吉にとって、これが人生初の単行本です。この本は好評を博して重版されましたが、無理が重なったことで南吉は体調を崩してしまいます。
昭和17年(1942年)3月には、3冊の童話出版の話が持ち込まれました。病気を抱えながらも作品を書き続け、巽聖歌の計らいによって、初めての童話集『おぢいさんのランプ』が出版されます。
その後も執筆活動を続けましたが、体調は次第に悪化していきました。

昭和18年(1943年)1月、南吉は安城高等女学校を休職し、病床に伏します。2月になると、自身の余命を悟った南吉は、手元にあった作品を巽聖歌へ送り、出版を託しました。
教え子や親しい人たちが見舞いに訪れる中、南吉は最期まで文学と向き合い続けます。
昭和18年3月22日、南吉は29歳7か月という短い生涯を終えました。
わずか29年あまりの生涯でしたが、南吉が文学作品を書き始めたのは10代の頃。若い頃から作品を生み出し続け、教師として働きながらも執筆活動を続けていました。
そして、その作品の中には『ごんぎつね』をはじめ、故郷・岩滑の風景や自然が感じられる童話もあります。
南吉はどのような場所で育ち、どんな風景を見ながら作品を書いていたのでしょうか。次は、南吉の代表作が生まれた背景を見ていきます。
『ごんぎつね』に込められた孤独と故郷への想い
『ごんぎつね』が書かれたのは、南吉が18歳の頃。母校で代用教師を務めていた時期でした。
南吉はこの頃、教え子たちにも自作の童話を聞かせていたとされています。ごんぎつねは、いたずら好きのきつね・ごんと、村の青年・兵十との交流を描いた物語です。

一見すると、きつねのいたずらをめぐる物語ですが、読み進めていくと、そこには孤独とすれ違いが描かれていることに気づきます。
ごんがいたずらを繰り返すのも、単純に意地悪な性格だからとは言い切れません。誰かにかまってほしい。自分の存在に気づいてほしい。そんな寂しさの裏返しとして、いたずらをしているようにも読めます。
しかし、ごん自身には悪気がなかったとしても、その行動が兵十の母親の死と重なり、二人の間には大きなすれ違いが生まれてしまいます。
そして、ここに南吉自身の生い立ちを重ねて読んでみると、興味深い部分があります。
南吉は幼い頃に母を亡くし、その後も養子になるなど、幼少期から家族との別れや環境の変化を経験しました。
もちろん、ごんぎつねが南吉自身の体験をそのまま描いた作品だと断定することはできません。
それでも、幼い頃から孤独や別れを経験してきた南吉の人生を知った上で読むと、孤独を抱えながら誰かとのつながりを求めるごんの姿が、どこか南吉自身と重なって見えてきます。
ごんも兵十も、それぞれ孤独を抱えていました。けれど、その気持ちをうまく伝えられないまま、二人の思いはすれ違ってしまいます。
もしかすると南吉は、きつねと人間という異なる存在を通して、『誰かと分かり合いたいのに、うまく伝わらない』人間の寂しさを描いたのかもしれません。
そんなふうに考えると、ごんぎつねは単なるきつねの童話ではなく、孤独を抱えた者同士の心のすれ違いを描いた物語としても読めるのではないでしょうか。
そして、この物語を生み出した背景には、南吉が幼い頃から見てきた故郷・岩滑の風景もありました。
童話の舞台|権現山と彼岸花の群生
岩滑には、ごんぎつねの舞台のモデルとされる権現山があります。「山」と呼ばれていますが、一般的にイメージするような高い山ではなく、標高約40メートルの、こんもりとした丘陵です。


実際に登ることもできますが、今回は周辺からその姿を眺めることにしました。
権現山の山頂には五郷社が祀られており、地元では「権現さん」と呼ばれています。ごんぎつねに登場するごんと権現山には関係があるとされ、「ごん」という名前は「権現さん」に由来するのではないかという説もあります。
権現山の周辺には田んぼが広がり、岩滑の集落との間には矢勝川が流れています。そして、岩滑を代表する風景の一つが、矢勝川沿いに咲く彼岸花です。
9月下旬から10月上旬にかけて、矢勝川の堤は真っ赤な彼岸花で彩られます。約2kmにわたって続くその光景を目当てに、毎年多くの人が岩滑を訪れます。

この彼岸花は、開花時期に合わせて開催される「ごんの秋まつり」でも知られています。
以前訪れたときには、川沿いを埋め尽くす彼岸花の見事さに、まるで童話の世界に入り込んだような感覚になりました。

ごんぎつねの物語にも、兵十の母親の葬列の場面で彼岸花が登場します。彼岸花は古くから、墓地や彼岸との結びつきなどから、死やあの世を連想させる花として語られることがあります。
そんな彼岸花が物語の中に登場することで、作品の悲しさや物語の世界観をより印象的に感じられるのかもしれません。

実際に岩滑を歩いてみると、ごんぎつねだけでなく、南吉が生まれ育った土地の風景そのものが、今も身近に残されていることを感じました。
ここまで南吉の生涯や作品について知った上で歩いてみると、作品を読むだけでは気づかなかった故郷の姿も見えてきます。
さらに南吉について知るため、次は新美南吉記念館へ足を運びます。
新美南吉記念館を訪問
新見南吉記念館 施設概要

| 項目 | 詳細 |
|---|---|
| 所在地 | 〒475-0966 愛知県半田市岩滑西町1丁目10-1 |
| 電話番号 | 0569-26-4888 |
| 営業時間 | 9:30~17:30 |
| 定休日 | 月曜日 |
| 観覧料 | 220円(中学生以下は無料) |
新美南吉記念館は、県道265号線と県道467号線の交差点「南吉記念館東」の近くにあります。
周辺には案内看板も多く、記念館の壁にも「新美南吉記念館」と大きく表示されているため、初めて訪れても場所は分かりやすいと思います。
そして、何より目を引くのが特徴的な外観です。芝生が波打つようなデザインになっていて、外から見ると「いったいどこが建物なんだろう?」と思ってしまうほど。

道に沿って歩いていくと、入口は地下へ下りていくような造りになっています。そこで初めて、芝生に覆われたようなこの建物の中に、展示スペースが広がっていることが分かりました。
一般的な博物館のように、建物が地上に大きくそびえているわけではありません。むしろ周囲の自然に溶け込むようなデザインになっていて、童話の世界を訪れるようなワクワク感を感じさせてくれる外観だと感じました。

『これが新美南吉の世界なのかな?』そんな期待を膨らませながら、いよいよ館内へ入ります。
童話の世界に触れる再現展示スペース
入館すると、まず目の前に等身大の南吉が腰掛けていました。記念撮影スポットになっているようです。その背後には、開催中の特別展の案内があります。


通常料金で特別展まで見られるのはありがたいですね。ちょっとお得な気分になりました。支払いを済ませると、係員の方から「床の肉球に沿って進んでください」と案内されました。
床を見てみると、そこには小さな肉球が!それだけでも可愛いもの好きの心をつかまれたのですが、さらに進むと、『手袋を買いに』のワンシーンを再現した展示がありました。これは可愛い過ぎる……!!



雪の積もる寒い中、手袋を買いにお店の前に佇む子ぎつねの姿に、思わずキュンとならない人はいないと思うほどの破壊力です笑
子きつねの愛くるしさはもちろんのこと、うっかりきつねの手を出してしまうドジっ子ぶりがたまりませんて・・・
よく再現されているなと眺めていると、ドアにはうっすら男性のシルエットも見えました。


児童文学の記念館だけあって、作品を知らない子どもでも物語の世界に入りやすい見せ方になっているのが印象的です。
その隣には児童書を楽しめるスペースもあり、小さな子どもでも楽しめる工夫が感じられました。

作者の人生と作品に触れる展示スペース
次は渡り廊下のような通路を通って、別の展示スペースへ向かいます。
階段を下りた先には、『ごんぎつね』の舞台とされる権現山や矢勝川周辺の風景が紹介され、ジオラマ展示もありました。


さらに進むと、南吉の生い立ちや生涯を紹介するパネルが並んでいます。
ここでは、前南吉の幼少期から晩年の人生を、写真や資料とともに見ることができました。

パネルの下には、南吉が実際に書いた原稿や手紙も展示されています。カタカナで書かれた原稿には時代を感じ、何度も書き直された跡のある原稿には、作品が完成するまでの過程まで伝わってくるようでした。
若くして亡くなった南吉ですが、こうした原稿を目の前にすると、10代の頃から文学と向き合い、物語を書き続けていたことを改めて実感します。
その後の展示では、代用教師時代や東京での学生時代など、南吉の人生における転機も紹介されていました。
順番に読み進めていくと、なかなかの苦労人の、ようです。何より彼を苦しめたのは体の弱さでした。
健康体であれば就けた職も将来家庭を持つことも出来たと思うと、才能がある分惜しい人物だったことが伺えました。

この展示スペースには南吉の生涯だけでなく、童話の世界を再現したジオラマもいくつもあります。
展示位置が低く、小さな子どもでも見やすそうなのも印象的でした。こうした配慮って理解を深めるためにも大事だと感じます。

作品を「読む」だけではなく、見る・感じることで物語への理解を深められる展示になっています。これだけの展示を一語一句読んでたら半日はかかってしまいそうです。

カフェ& ショップ|ごんの贈り物
展示スペースを抜けた先には、小さなショップとカフェが併設されています。写真をパシャパシャ撮るのも少し気が引けたので、今回は入り口付近の一角だけ撮影しました。

ショップにはクラフト雑貨が多く、ポップで温かみのある可愛らしいデザインのものが並んでいます。商品を眺めているだけでも楽しく、展示を見た後のちょっとしたお土産探しにも良さそうです。
その奥には、ちょっとしたイートインスペースもあります。(カフェスペースの写真はありません…)
文学作品を巡った後に、ここでひと息ついてカフェタイムを過ごすのも良いですね。日頃忙しく過ごしていると、こうした何気ない「ひととき」も大切なのだと感じます。
今回は南吉の作品や生涯に触れた後だったこともあり、たまにはスマートフォンから離れて、本を読む時間を持つのもいいなと思えるひとときでした。

童話の森を散策
新美南吉記念館の隣には童話の森があります。新美南吉記念館は、童話の森の一角にある施設なんですね。この地はもともと「中山」という城跡だったとされていますが、本当は町中にあったとか?


記念館の展示でも紹介されていますが、この森は地元の方々の協力によって保存・維持されているそうです。
森に囲まれた遊歩道は一周約7分ほどとのこと。せっかくなので、記念館を見学した後に散策してみることにしました。
なだらかな坂道を進んでいくと、お城のようなオブジェが見えてきました。『これが中山城だったのかな?』と思ったものの、説明書きが見当たらないため、詳細は分かりませんでした。


そのまま進むと、開けた広場に出ます。ステージのようなものもあります。もしかしたらイベントなどにも利用されているのかもしてませんね。
訪れた日は暑い日でしたが、木々が日陰を作ってくれていたので、歩いている間は思ったより過ごしやすく感じました。

さらに進むと、今度は下り坂。しばらく歩くと、小川にかかる橋にたどり着きます。ここを左へ進むと、記念館の方へ戻ることができます。


蝉の鳴き声に小川のせせらぎ。思っていた以上に心地よく、喧騒から少し離れて自然の中を歩くのも、良いリフレッシュになります。

出口付近には、でんでんむし、猫、きつねのオブジェもありました。……ただ個人的には、『あまり可愛くないな』と思ってしまいました。



芸術作品なので、そもそも可愛さを求めるものではないのかもしれませんね。そんなこんなで童話の森を一周。あっという間に散策を終えました。
記念館と童話の森を合わせた所要時間は、2時間ほどだったと思います。もしかすると、もう少し長く滞在していたかもしれません。
思っていた以上に展示の見応えがあり、森もゆっくり楽しめたので、気づけば時間があっという間に過ぎていました。

まとめ
南吉の故郷·岩滑の情景は童話の世界への影響が強く反映されています。
のどかな田園風景に権現山、彼岸花の群生はごんぎつねの世界そのもののようです。
岩滑の街には至るところに南吉とごんぎつねのイラストが見られます。まさに南吉の街といった印象でし、記念館の子きつねの可愛いところも見どころポイントです。




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